死すも独りなり - コーヒーブレイク

2001年 7月14日 築地

死するも独りなり

今日は銃器の話とは少し畑違いの話なので、お気に召さなければ読み飛ばして下さい。
最近は皆さんのおかげでこのHPのアクセス件数も確実に数字を伸ばしております。
多数の方が訪問して頂いているので、たまには銃器と関係のないコラムでもひょっとしたら暇つぶしに読んで頂けるのではと思い書いてみました。
ご存じのように、私は従来の銃砲関係のビジネス方法とはいささか異なったビジネス展開をしております、私のビジネスが大きくなると、逆に迷惑を被る同業者も多いと思います。
このビジネスを始めたおかげで、多くの同業者からは私自身非難の目で見られていると思います、また有形無形の営業妨害も有ると思います。しかし、それは仕方の無い事です。別に気にもしていません。この事は決して強がりや、弱音の裏返しで言っている訳ではなく心底そう思っているのです。
私が今、一番心酔している言葉は、次のいっぺい上人の言葉です。

生ぜしも一人なり
死するも独りなり
されば人と共に住するも独りなり
そいはつべき人なき故なり

この説明をすると、人は生まれるときは一人で生まれると言うことです。
死ぬときも一人と言うことです。
たとえ、親兄弟、親子と一緒に暮らしていても結局は一人と言うことです。

人間は生まれながらにして一人であるが故に、逆に孤独を嫌うのです。
人は人同士で集い、お互いの社会を形成します。業界のお約束と言うのもそうした村社会の掟だと思います、その掟を乱す私などは村八分になっても当然の事です。
孤独を避けるという意味でも、異性同士の場合はお互い話を聞いてくれる人を求めあい、そして暖めあい、愛しあい、そして究極のセックスと言う行為を求めるのでしょう。
しかしながらどんなに愛し合って、床を同じくしてセックスして愛し合ったとしても、お互い見る夢は違うのです。これを同床異夢というのです。
私が仮にオネーチャンとある時、寝床を同じくすることが有ったとしても、これは私がスケベのせいではなく、人間として孤独になりたくないと言う、真に人間の本質から出た行為なので誰もとがめてはならないのです。
で、私がこんな偉そうに講釈をしていますが、これは皆さんに賛同を得ようとして言っている訳では有りませんので誤解のない様にお願いします。

現在の地球上の人口は60億人に達しようとする勢いですが、これだけの人口がいても、全く私と同じ考えを持っている人は世界中で一人もいないはずです、築地はあんな事を言っているが、と言ってひんしゅくをかったとしても、それは当然な事なのです。
私の考えと貴方の考えは違っていて当たり前なのです、この世の中に60億人の人間がいたら60億通りの考えがあるのが当然の事です、ですから私のコラムを読んで、読んだ全員が納得しなくて当然なのです。

私がこのコラムの中でおかしな事を言っているなと皆さんが感じる事があって当然なのです、逆に私もこれが真実だと思って書いているのですから皆さんから批判されたからと言って今説明した自説を曲げることもないのです。
今日の私があるのは、私自身の努力もありますが、私は私の力だけでそれを達成出来た、等と思い上がっている訳ではありません、私に関わる全ての周りの人たちの力、神の力、仏の慈悲、宇宙の力が関係している筈です、別段ここでオームみたいな事を言う訳ではありませんが、簡単な話、私がこの日本ではなく、北朝鮮に生まれていたら私の置かれた状況は今とは相当変わっていたはずです、仮に日本に生まれていたとしても、ある時不本意ながら北朝鮮に拉致されていたら、同じ様に大きく世界観は変わっていたいだろうと思います。こんな事を書くと朝鮮総連の関係者が気を悪くするといけないので、別の例に例えますと、例えばアフリカのボツワナ等の国の少数部族に生まれていたとしたら、乳飲み子のまま死んでしまったかも知れません。
これらの場面に遭遇しなかったと言うことを、当たり前と考えるか、仏の慈悲と考えるかそれはその人の世界観の違いです。
今こうして宗教的な事を話していますが、私は特定の宗教を持っている訳ではありません、私の家系は先祖代々浄土真宗ですが、先祖の墓参りに行くことはあってもどこかの寺の檀家と言う訳ではありません。私自身は、もし私が死んでも亡骸を焼き場で焼いたらそのまま灰を焼き場に捨てて貰いたい気持ちです、灰を持ち帰ることでまた新たなメモリーを誰かが建てることになり、それがまた面倒な事ではありませんか。
墓標を建てることは供養と言う目的も有るでしょうが私は元々この世の中に怨念を持って生きておりませんので供養してもらう必要はありません、メモリーと言う意味での墓石なら私には必要有りません。
実は私も人の子、何らかの形でメモリーを残したいとしたいと思うこともあります、その為にはこの電脳社会こそ私のとっての最大のモニュメントなのです、私はこのHPに色々書いていますが、これこそが私の残しているメモリーなのです、しかしながらこの書き込みは時代と共に陳腐化するでしょう、ですから出来るだけ陳腐化しない様に書き込みを更新させていく必要があります。しかし現実問題はなかなか理想的にはまいりません。
そして私が死なんだときはすぐに忘れ去れれていくことになるでしょう、しかしながらこうしてメモリーを残している事も事実なのです。

阿川弘之氏の小説に、"雲こそ我が墓標"という感動的な本が有りますが、私の場合は電脳社会こそ我が墓標ととらえ、これからもコラムを書き続けて行きます。

お盆が近いので、少しおかしなコラムになりましたがご容赦を。

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