大藪春彦さんと私 - コーヒーブレイク

2000年 3月27日 築地

1971年、私はアメリカでのガンスミズの修行を終えて帰国した。
アメリカでハート、ステンレスバレスの銃身を使用した射撃専用銃を自作して持ち帰り、その年北海道真駒内で開催された全日本ライフル射撃選手権に参加した。
大会の宿舎で初めて大藪さんにお会いした、私から声をかけたのではなく、大藪さんの方から声をかけられた、それまでアメリカでの修行の様子を、雑誌"狩猟界"に3回の原稿にして寄稿していたので日本に帰国したときはすでに大藪さんは私のことをご存じだったようだ。
当時、日本では銃器に関する情報は極めて乏しく、私の知り得ている範疇の事でも非常に興味深げにお聞きいただいた記憶がある。そのご縁から大藪さんの銃のメンテナンスを依頼されるようになり、亡くなられるまで何本かの銃身を交換したりさせて頂いた。
大藪さんとお会いになった人ならすぐにお解りになるのだが、大藪さんの書かれる小説の主人公と大藪さんは、ちょうど正反対の人物になるのではないだろうか?
まあ、射撃はそこそこ撃たれていたが、それ以外は小説の主人公、伊達邦彦とは真反対のイメージで考えられると良いと思う。
昔、ある書店の企画でサイン会で横浜に行かれた折りに、私も一緒に中華街に呼ばれ食事をしたことがあるが、中華の場合は飲まれる酒がマオタイ酒なのには驚いた、これをロックでガンガン飲まれていた。酒が回り、女性の話になり、話はかなり隠微な話題に及び、隠微から陰毛に話が流れ、陰毛の色と頭髪の色との話になり、陰毛の色と眉毛の色は同じですよと私が話したら、非常に驚かれていた、私にすれば常識みたいな事なのであるが、思いの外大藪さんはそうした事の経験は少なかったようである。売れっ子の作家であるから一人や二人のガールフレンドは居たのだろうが、大藪さん自身、あまりモテモテだったと言う話は伝わっては来ない。
私の主宰する、ベンチレスト射撃協会では大藪さんの先輩であった早稲田大学の射撃部OB、Kさんに色々ご指導を仰いでいるが、大藪さんの事を"大藪"と呼び捨てにされたのは私の知る限りKさんだけであった、大藪さんは早稲田大学を卒業されたわけではないのであるが、後年早稲田大学の射撃部監督をされた、これにはKさん等、早稲田大学のOBの方たちは少なからず不満を持たれていたようである、大藪さんを早稲田大学の監督にしたのはまた別の思惑のある人達の動きだった様に思える。
大藪さんも、早稲田大学射撃部監督と言う名前を、御自分への値打ち付けに使われたのかも知れない。私も週刊誌のグラビアで何度か拝見した事がある。
大藪さんはアラスカ、モンゴル、南アフリカのハンテング紀行を、雑誌として出版されているが、これも小学館が、頭から尻尾まで一切丸抱えで面倒を見た経緯があり、我々の間ではハンテングとしての評価はあまり高くない。
ニュージーランドのハンテングガイドをしたのが宮川さんである、雑誌の中に大藪さんの記述で"私の若い友人、宮川雅雄君"というフレーズで書かれているが、これも同じくベンチレスト射撃協会のメンバーである宮川さんの事である。で、宮川さん曰く、大藪さんのニュージーランドハンテングはヘリコプターでの移動で、あまり足で歩いたハンテングではなかったそうである。
最も、今の私も足で歩くハンテングなどとても出来ない体になり、普段からの不摂生と自堕落な生活が大藪さんと同じような体型、そして同じような体質になってしまった。
宮川さんの話では、大藪さんはいつも大量の薬を愛用されていたそうである、オーバーな話かも知れないが、常時段ボール1杯の薬があったそうである。
それが何の薬だったのかは今となっては不明だが、結果的には薬の飲み過ぎが結果的に老化、あるいは病の進行をを早めたのかも知れない。
私が最後に大藪さんの仕事をさせて頂いたのは銃身交換であった、それは大藪さんの別荘の在った軽井沢の射撃場で、ライフルスコープの照準調整をするボアーサイターのアーバーを銃身の中に入れたまま弾を撃ったので銃身が膨らんだので交換してももらいたいと言う依頼であった、大藪さんに話を聞いたら、弾を入れて撃ったのに反動もないし音もしないのでボルトを開いたら"シュッ"と音がしてガスが抜けたそうである。
はっきり言ってアーバーを銃身に入れたまま撃つという事はシューターとしては完全なケアーレスミステークである、この時はもう大藪さんも射撃に関しては駄目かなと思わざるを得なかった。また朝霞射撃場では隣の的に誤射してそのまま気づかず撃ち続けたと言う逸話も残っている、これ以降大藪さんが朝霞射撃場で射撃されることはなかった。
私が、大藪さんの銃身交換の仕事を終えて、銃を取りに見えた大藪さんがあまりに痛々しいので車まで見送りに行くと、大藪さんは歩行もやっとと言う状態で大きな体を大きく左右に振られながらやっとの状態で歩行され、助手席に乗り込まれるのも大儀に体を動かされ、やっとの状態で乗り込まれた。大藪さんが亡くなられたのはそれからまもなくであった。

今回は普段、皆さんが見聞きしている大藪春彦さんとは少し違った一面をお話ししましたが、これは大藪さんがエンターテナーとして、小説を面白く書かれるため如何に努力されていたと言うことを言いたいために書きました。
もし、大藪さんが自分の体験をしたことをありのまま書いたら、あのような痛快なハードボイルドアクションは生まれなかったでしょう、射撃を、ハンテングを、そしてハードボイルドを、読み物としてこの世に残して下さった大藪さんに敬意を表して皆さんの知れない大藪春彦像をご紹介させて頂きました。

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